社会現象にもなった、ご存知「鬼滅の刃」。
私もブームから少し遅れてコミックを読み始め、落涙しながら全巻読破いたしました。
それまでは利用者さんから「センセー、柱で誰が好き?」と質問されても、炭治郎と禰豆子の名前しか知らないので、「柱はわからないけど、ネズコは漢字で書けるよ(汗)!」などとお茶を濁していたのですが、今では鼻息荒く語ることができます。
先日も小学六年生の男の子から「どの場面が一番好き?」と聞かれ、心に響いた場面を互いに発表しあいました。
彼は縁壱と黒死牟の対決シーンを挙げ、理由としては「なんで俺ばかり」という黒死牟の気持ちに共感したというようなことを話してくれました。
鬼滅の刃の登場人物は、鬼ひとりを挙げても映画が一本できるくらいの背景があります。そこには劣等感・嫉妬・絶望・承認欲求など、私たちが一度は抱いたことのある感情がベースとして描かれているので、自分自身を投影して感情移入しやすいのかもしれません。
人気ランキング上位の我妻善逸は、不安や恐怖が先に立って積極的な行動ができませんが、(失神して)それらが取り払われると、持っている力を存分に発揮することができます。
嘴平伊之助は直情的、常に全力で周りの事などお構いなしですが、気配を察知する能力に長け、実践力はずば抜けています。
得意なことと苦手なことに大きな差があると、苦手なことをマイナスとして捉えがちですが、鬼滅の刃ではそのギャップを明るく楽しく描いています。そのポジティブなギャップ観が、この2人の人気を後押しするのに一役買ってるのではないかなと考えたりします。
対して炭治郎の人気がそこまででないのは、ギャップも激しさもなく、面白味に欠けるという点でしょうか。
でも、炭治郎のように毎日同じことを飽きずにコツコツ続けることが、簡単にできそうで、実際はできないことなんですよね。
派手なこと=すごいこと、と思いがちですが、本当にすごいことやすごい人は、意外と地味だったりします。
私の思う「鬼」とは、「心を殺す者」。
何を言っても否定される。これほど心を殺されることはありません。
そして、鬼を作るのは、劣等感・嫉妬・絶望・承認欲求などのネガティブな感情。
でも、柱にもその感情がベースの同じような背景がありました。
つまり柱になるのも鬼になるのも紙一重だったわけです。
では、柱と鬼を分けたもの、それは何なのだろうと考えた時、自分の存在を否定せず、肯定してくれる誰かの存在があったかどうか、なのかもしれないと思いました。
話を遮らずに最後まで聞いて、「良かったね」「残念だったね」と一言伝えるだけで、柱は逞しく育っていくのではないか。
目を輝かせて鬼滅の話をしてくれるお子さんたちを見て、そんなことを思いました。
Comments